What we call “descriptions” are instruments for particular uses. Think of a machine-drawing, a cross-section, an elevation with measurements, which an engineer has before him. Thinking of a description as a word-picture of the facts has something misleading about it.
— Ludwig Wittgenstein, Philosophical Investigations #291 (via pragmatica)
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取引の結果が効率的になるためには、個々人の満足度が他人のそれに左右されない、という前提が必要となる。

たとえば、誰かが利益を得たときに、自分自身に経済的損失はなくとも ―― 場合によっては得であっても ―― 満足度が下がってしまう、といったことが起こらないという前提だ。これを経済学では「Envy Freeの仮定」という(Envy Freeでなくとも、パレート効率的な均衡があるじゃないかというマニアックでトリビアルな指摘はひとまず脇に置いておこう)。

しかし、近年の行動経済学の成果をもち出すまでもなく、わたしたちの満足度は他人のそれに大きく左右される。仲の悪い知人が大金を稼いでいると知ったら、ほとんどの人の満足度は下がるだろう(少なくともわたしはそうだ)。その一方でどこの誰かも知らない人がいくら儲けていようと、わたしたちはそれほど関心を払わない。スーパーで野菜を買うときに、スーパーの社長や生産者が儲かることを考えて地団駄を踏むという人はいないだろう(いるかもしれないがそれはかなり例外的であろう)。

誰がつくり、誰が儲かるのかわからない、少なくとも直接の知り合いではないという匿名性が、効率的な市場均衡において大きな力を発揮する。宗教的な意味合いを含みに理解されがちな沈黙交易は、匿名性の担保という意味で、現代的な市場の成立要件をも備えていたわけである。

でも、カテゴリー分類するための特徴がなければ? まったく区別のつかないものをどのカテゴリーに分類すべきかは、どうやってわかるの? その場合、カテゴリーに基づいて云々という議論自体が無意味となる

人間の解像度では区別のつかないレプリカの話は、だからカテゴリーを持ちだしても解消できない。カテゴリー識別ができない、ということなんだから。物理的にまったく区別がつかないけど、そのカテゴリー分類だけはわかる――これがあり得るのは、なんかあらかじめ解説書かレッテルでその情報が別にインプットされていた場合だ。が、その解説書やレッテルの正しさはどうやって担保されるの?

 バブル崩壊がどうのというのは去年の夏ぐらいからいろいろとあれですが、50億の利益が出ると言っても従来のゲームパブリッシングとの決定的な違いは明確で。初動でパッケージが売りあがってドンと金が入ってくるわけではなく、月に何億円かの売上が上がりながら、それを増やしたり維持したりする運営にコストをかけて半年ぐらいで迎える商品寿命から得られる売上をどう最大限にするかというビジネスの進め方です。
小熊 あなたは、若くなくなったら若者論はやらないとおっしゃった。私なりに定義をすれば、未来で評価される人が若者、現在で評価される人が大人、過去で評価される人が老人です。18歳で引退したスポーツ選手は老人です。あなたはたぶん、今は若者のつもりでいるのでしょう。
たとえば、脱原発のデモをやっている人たちのことを、投票に行ったほうがいいんじゃないかと批判する意見がある。あるいは、どこかの政党にロビー活動するとか、新しく党を作ったりしなければ意味がないんじゃないかとか。でもデモをやっている人たちは、当面はそんなことを考えてやっているわけではない。そんなことを考えてばかりいたら、デモなんて意味がないということになるし、盛り下がってしまう。

そういう状態を、だからデモをやっている人たちは自己満足なんだとか批判する向きもあります。しかし私は、代議制民主主義という19世紀に成立したシステムを不変の前提にして考えるから、そういう批判の仕方になるんだと思いますね。

いささか極端なことをいうと、代議制民主主義というのは、もうかなり苦しいと思っています。代議制民主主義は、共同体や階級制度がしっかりしている社会のほうが成立するものなんです。議員とは「わが村の代表」であるとか、「わが労組の代表」であるとか、「労働者階級の代表」であるという意識がもたれているほうが機能するんですよ。

だけど、今どきそれはない。議員が「我々の代表」だとは思われていないんです。村とか労働者階級とかの、「我々」がなくなったからです。単に票を集めている人だと思われているにすぎない。だから何の正統性もない。

それに対して「国家という我々」を作れという話があるけれども、それだと「我々」が分裂しているのはおかしいから、一党独裁になる。それは20世紀前半に大失敗したので、どこの先進諸国も、機能不全になりながら代議制民主主義でやっている。

ではどういう制度を作ればいいのかといえば、それは簡単にはいえない。けれども、代議制民主主義が機能しなくなったときに、直接民主主義の表現形態としてデモが出てくることは必然だ、という程度のことはどんな政治学者だって認めます。

自分の所属する組織が、明らかに(自分から見て)変な方向に進んでいくときの力学も、いまではずっとよくわかるし、その中で少数派の意見を堅持するむずかしさもわかる。そしてそれにしがみつくことで発言力を失うのと、「戦略的撤退」をして発言力は維持しつつ自分の意見を少しでも通す機会をうかがうのとどっちがいいか、という選択の苦しさもわかる。歴史は結果しかみない。スティーブ・ジョブスは、いま死んだからこそ「信念と理想を貫き云々」と言ってもらえる。でも製品の調子が悪いときだったら「己の思い込みにこだわりすぎて柔軟性を失い云々」と罵倒されたことだろう。

むろんだからといって、ここに描かれた人たちがきわめて優秀でありながら(いやそのために)とてつもなく愚かだったということを否定するものではない。そしておそらく、本書の記述を信じる限りでは軍のタカ派将軍数名とその手下の事なかれ主義イエスマンたちは、ベトナム戦争突入と深刻化の甲級戦犯なんだが、それ以外の政府がなぜそれを止められなかったのか……そして本書は、「もしXXだったら」というのをなかなか許してくれない。あそこでマクナマラがこうだったら、こっちでラスクがああすれば――でも、そこで出自や経歴をたんねんに追う本書の手法が効いてくる。かれらがそういう地位にそもそもたどりつけたのは、かれらが「こう」ではなかったからで「ああ」しない人物だったから、なのだ。

日本で若年失業率が、ヨーロッパのようには上がらないのは、一つには働かざるをえないからです。つまり、敗者復活の機会がないからです。ヨーロッパなら、時給数百円の非正規雇用でずっと働くくらいなら、失業保険でしばらく耐えようとか、その間にもう一回学校に行ってキャリアアップして正規雇用に就こうと考えます。しかし日本ではそういうモデルが成り立っていない。学校に行きなおしたところで、新卒から漏れると正社員になれる目処がないから、時給800円でも働くしかない。

アメリカやヨーロッパだったら、展望もなしに非正規でずっと働く若者が少ないから、若年失業率が上がって移民が入るんです。ところが日本では、正規雇用のチャンスを永遠に失い続ける若者と、女性と子育てを終えた主婦が働くので、移民が必要ない。移民なみの条件で働く人たちがいるからです。
飯田氏:政治家や官僚、学者にとって、景気が良くなっていいことなんかたいしてないですからね。票にもならないし、官僚も学者も給料が上がらない。むろんもっと景気が悪くなって欲しいとは思っていないでしょうが、その解決のために全力を投入しろというのは難しいでしょう。経済学者という論者としての立場を無視していいのであれば、僕も「デフレっていいな」と思います。僕個人の収入という面でいえば、デフレで悪いことはたいしてないですからね。繰り返しますが、不況によって絶対的な打撃を受けるのは、失業によって苦しむ人たちだけです。一方、好況期には不安定な職の人も救われますが事業家はもっともうかる……いずれの両極端ケースにも政治家・官僚・学者は出てこないのです。
飯田氏:一つは、インフレは資産家が非常に忌避する政策であること。資産家というとロスチャイルド家みたいなイメージがありますが、日本の場合、高齢プチ資産家つまり金融資産を5千万円ぐらいもっている60、70代ぐらいの層を指します。ここは非常にボーティングパワー(投票力)があるので、政治家は無視できない。

これはまた価値観の話になってしまうのですが、ケインズは「何も働いていないのに裕福に暮らしている層――すなわち有産階級を安楽死させる方法としてのインフレ」について考えていました。具体的には、インフレによって彼らの資産を年率数%ぐらいずつ削っていくというわけです。国がとって分配するのではなく、現役世代はインフレと好景気というかたちで享受する。

しかし、ケインズは、自分が投資家だったこともあって、リスクマネーをとっている、つまり株式を持っている人の利益は正当だと考えていたようです。当時、イギリスなどには、国債だけを保有することで、生活できてしまっていた人たちがいました。「こいつらは何もしていない」「何の役に立っていない」とケインズは攻撃したんです。彼らは、ビジネスの原資も出していなければ、自分でビジネスもやっていない、労働者でもない。そんな人がいい生活をしているのは、倫理的におかしいだろうと主張したわけです。これは完全に価値論です。
消費税増税の”痛み”というのは、5%税率があがることだけではないのです。それによって失業者がでること、いま現在、最低限の生活を賄うことにも窮している人々に負担が集中してしまうことなのです。職を失う人たちに負担が集中し、彼らが一番困ってしまう。ですから、仮に痛みが集中するごく一部の人のことを考えないのであれば、「増税によって財政を再建しよう」という主張はある程度正しいと思います。安定した職を持っている人にとってはたいした痛みじゃないですよ、5%の消費税増税は。そりゃ嫌ですけど、致命的ではない。「絶対に嫌か」、と聞かれれば「そうでもない」という話になると思います。
彼はくり返し「とにかく、まずは理念を言わなければならない」と言う。なぜなら、確かに理念は絶対にそのまま実現されることはない以上、理念を語る人間は宿命的に何がしか偽善的にならざるを得ない。しかし、偽善には少なくとも向上心というものがある。ところが、人間はどうせこんなもんだからと(だから自由なんか認めてもしょうがないとか何とか)開き直って認めてしまえば、そこからはもはや向上心とか否定的契機といったものは何も出てこない。そもそも自由という契機があるからこそ、我々人間はこれではおかしいんじゃないか、これではいかんのじゃないかといった否定的契機(向上心)も初めて出てくるのであって、もし「自由、そんなもんただの幻想だ、虚偽だ」と言ってしまえばもはや否定的契機も向上心も何も出てきやしないこない。だから、結局、(あきらめてシニックになって)今の現状のただの肯定にしかならない。だから、どんなに自由が抑圧されようがそれを肯定することにしかならない。だからこそ、我々はこの向上心とか否定的契機を失わないために、自由に対する抑圧にあきらめないで最後まで抵抗するために、野暮ったくても柄でもなくてもやっぱり声を大にして、もう一度、自由や人権の理念を掲げるという「頑固親父」(=啓蒙主義者)になるしかないのだと浅田彰は言う。